直葬で送る事情

通夜、葬儀なしで荼毘に付す「直葬」が、首都圏大都市部を中心に増加しています。一説では昨今の葬儀の5件に1つは「直葬」だとのこと。

「直葬」という言葉は、もともとは入院中の病院などで亡くなられた方のご遺体が自宅に帰ることなく、斎場に直行しそのまま葬儀することを指していました。それが葬儀簡素化の広がりとともに、今では葬儀をせずに火葬場に直行して火葬、拾骨する葬送法を指すようになりました。

そうした「直葬」を希望する喪家が理由としているのは、総じて経済的な事情です。株高がつづき景気は上向いてきていると言いますが、物価も税負担も上がっていて、経済格差・貧困の広がりに歯止めがかかったわけでもありません。そんな中で葬儀支援ネットの電話相談でもこの数年、まとまった出費が必要な葬儀をするのは物理的(経済的)に無理だというという喪家は目立つようになってきています。

しかし、経済環境が好転し、暮らしにも余裕が生まれるような局面が広がっていったとしても、今後も「直葬」は増えるのではないかと、私たちも葬儀社の多くも想定しています。と言うのも、「直葬」が選ばれる背景には、単に喪家の経済的事情だけではなく、少子高齢社会、核家族社会によって生じた負の問題も絡んでいると思われるからです。

高齢社会は長寿社会との裏表です。死期を迎える年齢は高くなっています。でも、その時まで高齢者の誰もがずっと元気でいられるわけではありません。罹病、体力の衰えなどから長期療養や介護が必要となる人も、少なからずいます。
老老介護の末に伴侶の死に直面し、頼りとなる身寄りも子どもいない人。あるいは、一人っ子で、母親が先立ってまもなく脳梗塞で半身不随となった父親を仕事を辞めて介護し、やっと看取ったときには独身のまま自らも年金頼りの高齢者になっていた人・・・・。この先も自力で生きて行かなくてはならないこの人たちにとって、選択できる送り方は「直葬」しかないのかもしれません。

核家族化が進んだことによって親戚との関係も希薄化していることも、「直葬」が選ばれる動機になっていると思われます。生涯独身で過ごし亡くなった叔母を「直葬」で送りたいと相談してきた男性。「・・・叔母には小さい頃は可愛がってもらった記憶があるものの物心ついてからは疎遠で、両親の死後はまったく音信不通でした。かなり自由に生きた人で他の親戚とも付き合いはなかったらしいし、正直なところ自分には(葬儀を出す)余裕も義理もないのだが・・・」と。

この相談者の叔母様もある意味そうですが、親族ともつながらないままの「孤独死」、とりわけ「自死」などは、表だった葬儀を憚って「直葬」となるケースも見受けられます。

こうした事例には、なるほどと納得し同情するところも多いのですが、団塊世代が後期高齢者に達しつつある今後、そして、親族・親戚の関係だけではなく社会的な人間関係そのものさえ希薄化しつつあるこれからの時代、やむにやまれぬ事情と経済的不安が絡み合ったこのような「直葬」は、増えることはあっても減ることはないと思われるのです。

ところが最近、そうした事例とはまったく違う「直葬」希望の相談が目立ってきていて、いささか気になっています。

ひと言で言えば、特段の経済的事情や問題があるわけではなく、単純に、葬送にともなう出費の安さだけから「直葬」を選んでいると思われるタイプの喪家です。
誤解を恐れずに言えば、こうした喪家のの関心は、専ら「いかに早く、安く、簡単に、身近から死を遠ざけるか」ということのように思えます。

そして聞こえてくる声は、総じて「葬儀なんて形式的なセレモニーで、価値があるとは思わない」「(死者を)送ることに重い意味があるとは感じない」「生きてる者のこれからの方が大事・・・」といったものです。

でも、本当にそれでいいのでしょうか。宗教儀礼であろうがあるまいが、あるいはお葬式という形をとろうがとるまいが、死者を想い送るための葬儀、そして葬送のプロセスは、生きている者が「死」と向き合う機会、死んだ人に敬意をはらう行為として大切なことだと思います。
それをおろそかにして軽々に「死」を遠ざけようとすることは、自分自身の「生」をも軽んじることになるのではないでしょうか。この世は諸行無常。すべからく「生」と「死」の狭間にあり、と思う次第です。