おみおくりの作法~葬儀はだれのためのもの?

今年のはじめに日本公開された映画『おみおくりの作法』(原題「STILL LIFE」2012年イギリス・イタリア合作)が、9月にDVD(Blu-rayも)リリースされたので改めて鑑賞。映画館で視たときに以上に、思うところ感じるところがありました。

この映画の背景にあるのは、いわゆる「孤独死」です。
一人暮らしで、誰に看取られることもなくひっそりと亡くなり、何日も経ってから発見される、いわゆる「孤独死」は日本でも年々その数が増え、葬儀・葬送をめぐる社会問題のひとつになってきていますが、イギリスはじめ西欧諸国でも事情は同じ、というよりももっと顕著かつ深刻な面があるようです。

イギリス・ロンドンでは、孤独死した人を弔う仕事をする人が、民生係として市の各地区に一人、必ずいるそうです。この映画は、そういう民生係のジョン・メイを主人公にした物語です。

映画「おみおくりの作法」ポスター画像
© Exponential (Still Life) Limited 2012

ジョン・メイには彼独自の仕事の流儀、民生係の職に就いてから22年間続けてきた「おみおくりの作法」があります。
それは、
1.故人の写真・アルバムを見つけ出す。
2.故人の宗教(信仰)を特定する。
3.その人に合った弔辞を書く。
4.その人の葬儀のBGMにふさわしい音楽を選ぶ。
5.故人の身寄り・知人を探し、葬儀に招待する。
6.葬儀を営み、列席した後、埋葬する。
というもの。

ある日、メイは上司から呼び出され、「君の仕事は、費用はとにかく時間がかかりすぎる」と、解雇を言い渡されます。
民生係の仕事は基本的には、一人きりで亡くなっていた人について、その事実を記録し、遺品の始末を手配し、遺体を火葬して埋葬することです。事務的に処理すれば1件ずつに大して手間のかかる仕事ではありません。

しかしメイは、孤独に亡くなった人の身元を知り、家族を見つける努力を怠りません。写真やアルバムはその手がかりです。そこから、故人の生きた日々を想って弔辞を書き、その人の葬礼にふさわしい音楽を選んで、故人の信仰に沿った宗教者による葬儀を営みます。
葬儀に列席するのは、いつもジョン・メイひとりだけ。ようやく見つけ出した家族に連絡し葬儀へ招待しても、とうに絆の切れてしまった家族からは拒絶されてしまいます。

それでもメイは「亡くなった人の魂が、品位ある方法で眠りにつくのをきちんと見届ける」ことをやめません。
そういう彼にに対して、上司が言います。
「葬儀は死者のためのものじゃない。弔う者がいなければ必要ない。第一、遺された者にしても、誰もが葬儀や哀しみを知りたいとは限らない。」

この考えには、案外、同調する人は多いかもしれません。
葬儀は亡くなった人のためのものではなく、遺された、一般には遺族・親族など生きている人たちのためのものである、と。また、そういう生きている人たちの誰もが葬儀を必要としているとは限らない、と。

「どう思う?」と上司から問われて、それまでつつましく物静かで、けっして強く自己主張することなどもなかったジョン・メイが、このときだけは断固決然として答えます。
--「私はそうは思いません!」。
そして彼は、民生係として最後の仕事となる、自分の住む共同住宅の向かい側の部屋で孤独死した男の家族を探す旅に出ます。

映画のテーマは邦題となっている「おみおくりの作法」そのものではなく、原題の「STILL LIF」--文字通りジョン・メイの、自分の仕事を自分が納得できるしかたで誠実に丁寧に重ねていく、地味ですが、静謐な川の流れのようにに生きていく美しさということだと思います。

でもこの映画は、改めて「葬儀は誰のためのものか」ということを、私たちに問いかけずにはおきません。
葬儀はほんとうに弔う人のためのもの、生きている人次第のものなのでしょうか? メイの上司の言うように、そこでは、亡くなった人の想い、その人の人生などは顧慮する必要のないものなのでしょうか?

最近話題の遺骨をゆうパックで送って供養・埋葬は寺や霊園に“お任せ”にする「送骨」、葬儀も一夜のお別れもなしに火葬してしまう「直葬」。それぞれに個々の事情はあるのでしょうが、いずれも「おみおくりの作法」としては、死者のためより生きている者の都合ばかりを重んじているように感じられてなりません。