弔辞-「いのち」と向き合うことば

弔辞は社葬や著名人の告別式など、規模の大きな葬儀やお別れ会などでは必ずと言っていいほど行われますが、中規模以下の一般的な葬儀や家族葬では、あまり例がありません。

弔辞は、故人の遺体や遺骨の前を前にして、謂わば「旅立ついのち」に向けて”贈ることば”です。
葬儀知識集には「弔辞は遺族以外で故人と特に親しかった方にお願いする・・・」などと、まるで約束事のように書かれていますが、それは大規模葬などでの形式的通例に過ぎません。遺族・家族が弔辞を捧げても何ら問題はありませんし、むしろ、愛する家族の死や、かけがえのない大切な人の葬送に際してこそ、すすんで故人に贈ることばを持ちたいものです。

2007年に翻訳出版された『友よ、弔辞という詩』(河出書房新社)という本があります。海外の、今や歴史上の人物とも言える人を含めた著名人の葬儀で、同じく著名な人物や知る人ぞ知る人が故人に捧げた弔辞の粋を編んだ本です。

ボギーことハンフリー・ボガードに親友の映画監督ジョン・ヒューストンが、ミラノファッションの嚆矢ヴェルサーチに歌手マドンナが、チェ・ゲバラにキューバ革命の同志フィデル・カストロが、はたまた、ハードボイルドの父ダシール・ハメットに妻で劇作家のリリアン・ヘルマンが、そして、スペースシャトル・チャレンジャー号遭難で散った7人の宇宙飛行士にロナルド・レーガン米大統領(当時)が・・・と、厳選された29本の哀悼の辞。
いずれも、亡くなった著名人の、よく知られている人物像ではない、リアルな「いのちの物語」が浮かび上がってきて、会葬者も読者も、自ずと故人を悼む思いに導かれる珠玉の弔文集です。形式的な美辞麗句をつなぎ合わせただけの文例集などより、よほど弔辞の参考書になると思います。

葬儀における弔辞ではないですが、哲学者の鶴見俊輔さんが先立った所縁の人、見送った友人・知人、そして、従弟・良行、姉・和子、父・祐輔、母・愛子に宛てて書き綴った弔文集『悼詞』(編集グループSURE・刊)も、人の死に接して、その人の「いのちの在りよう」を受け止め、真っ直ぐに向き合う作法を教えてくれる良書です。
ここに編まれ収められている125本の追悼文は、前掲書と同じく故人への美辞麗句は一切なく、鶴見さん自身がその人とどう関わり、どんな思いをもって付き合い、そして、どんな影響を受けたかが、率直に語られています。

鶴見さんは1922年生まれ。「あとがき」でこう記しています。
「私の今いるところは陸地であるとしても波打ち際であり、もうすぐ自分の記憶の全体が海に沈む。それまでの時間、私はこの本をくりかえし読みたい。(中略)
今、私の中には、なくなった人と生きている人の区別がない。生者死者がまざりあって心をゆききしている。」

この一文で鶴見さんが述べているのは、すでに90歳の高齢を迎えた達観ではなく、人生という「いのちの日々」が人との出会いや関わりの中にあり、そこから得る糧と記憶の重なりが厚くなっていくことが齢を重ねていくこと、というように思えます。

先立った人と自分との関わりの記憶を通して、その人の「いのちの日々」向き合うことは、たぶん、今ある自分の「いのち」の重さ、人生の在りようを見つめ直すことになるはずです。ですから、葬儀で奉読なりスピーチするかどうかは別にして、逝く人へに宛てた「悼詞」、あるいは「弔辞という詩」を書いてみることをおすすめします。

もし、亡くなられた人が肉親や家族、大切な愛する人であったなら、そうした「いのちと向き合うことば」を書き綴ることによって、悲嘆の大きさも少しは軽減され、気持ちの整理にもつながるのでは・・・と思います。