「終活」に思うこと

最近、「終活」なることばをよく耳にします。
このことば、「就活」「婚活」などと同様の省略語で、自分の人生の最期を理想的なものにするために、生前から準備や作業をすること、言わば「人生の終わりのための活動」のことだそうです。

財産相続の遺言書作成はもちろんですが、それとは別に自らの人生への思いや家族に遺すことば、死後についての意思や願いを綴った「エンディング・ノート」を記す、あるいは、“立つ鳥、跡を濁さず”の謂に倣い、長い時間の中で溜まった品々を整理するなどに加えて、死後の自分の葬儀のしかたや内容、お墓や埋葬の方法などまでを決めておくというのが「終活」なのだそうです。

そういう「終活」をする人が増えているからか、このところ、生前からご自分の葬儀や葬送のしかた、内容を決めておきたいというご相談を受けることが時々あります。また、喪主・遺族の方から葬儀のご相談や葬儀社紹介のお申し込みをいただく際にも、葬儀形式や内容・予算などを具体的に指定されることが多く、詳しく聞いてみると、そうした方のほとんどから「故人が生前から決めていたので・・・」との答えが返ってきます。

「終活」が広がっている背景には、平均寿命が格段に伸びたことで、老後の、死期を迎えるまでの時間が長くなっていることがあげられるでしょう。でも、それ以上に、ライフスタイルや価値観が多様化し、自分らしい生き方を大事にする人が多数派になっていることが影響していると思います。人生の終わり方にも自分らしさを求めるシニア世代が増えていることが、「終活」に追い風を与えているのではないでしょうか。

いずれにせよ、誰にもやがては必ず訪れる死を、自分事としてある程度意識できる年齢になったときに、落ち着いてそれと向き合うことはとても意義のあることだと思います。自らのいのちの終わり方について考えることは、人生を見つめ直す契機にもなるでしょう。
そうして考えたり思ったりしたことをエンディングノート(最近は市販のものが各種出ています。)に綴り、この世と家族や親しい人に遺し伝えたい物事を記したり、思い出の品や愛蔵品の目録を作って整理するといった作業によって、その後の時間を心穏やかに安心して過ごすことにつながるのではないでしょうか。その意味では、「終活」は価値のあることだと思います。

ただ、そうした「終活」のひとつとして、自分の葬儀内容や葬送のしかたまでを決めておくということにまで及ぶとなると、それはいかがなものかと思うところがあります。

「終活」という自分らしい人生の終わり方をするための活動において、自分の葬儀や葬送のしかたも自ら決めておきたいと思うのは、おそらく、自分の死を悼み送ってくれる人たちに、自分らしいお別れの表現を示したいということではないかと思います。でも、それは「終活」の目的・意義に沿っていることなのでしょうか。

「終活」の目的というか本質的な意義は、自分らしい「人生の仕舞い(終い)方」ができるように、いのちある現在の日々をどう生きるかということではないかと思います。葬儀・葬送といった死後のあり方にまで、自分らしさを凝らして準備することではなかろうと思うのです。

そもそも葬儀や葬送は、逝く人(自分)のためのものである以上に、遺された家族や生前に深い絆で結ばれていた人たち、つまり「おくりびと」のためのものだと思います。
自分の葬儀・葬送は、どれほど準備したところで、生前葬でもしないかぎり自ら思い通りに執り行うことはできません。言い換えれば、自分の葬儀・葬送は、まさに自分らしい人生を終えた後に、自分以外の誰かによって為されることです。

知人の老婦人から、こんな話を聞きました。
その方は10年以上前に夫に先立たれたもののまだ元気ですが、葬儀社などとも相談して、自分のお葬式の内容や手順・費用などを決めたそうです。そして、そのことを家族に話したところ、ふだんは温厚な息子さんがひどく怒り、次のように叱責されたそうです。
「母さんをどんなふうに送るかは、その時に俺たちが決めることでしょ、母さんへのいろんな思いをこめて・・・さ。それを、送る者たちの気持ちや考えはそっちのけで決めた通りにしろなんて、ずいぶん自分勝手だし、そもそも、死んだ後のことまで思い通りにしようなんて、ちょっと傲慢じゃないか・・・」と。

この老婦人にはもちろん、死後のことまで自分の思い通りに差配しようなどとようなつもりはなかったのですが、「ちょっと傲慢」とまで言われシュンとしていました。
彼女にすれば、死後も自分らしくという思いもさることながら、いざという時に遺された家族が動揺や負担を感じないようにという配慮から、葬儀社との生前予約をしたのだということで、「息子たちと相談してからにすればよかったのだけれど・・・」と、反省しきりでした。

葬儀の必要に迫られるのは肉親家族の死に直面したときがほとんどです。そんなときに平静な精神状態で対応できる人は、たしかにあまりいません。故人の意思に基づいて用意されたプログラムがあり、それを手順・段取り通りにこなしていけばよいとすれば、安心かも知れません。しかし、喪主や遺族として葬儀・葬送を執り行うことには、単に形式や手順を踏むだけでは終わらない面があります。

雑誌『SOUGI』編集長の碑文谷創氏は著書『「お葬式」の学び方』(講談社)で、葬儀は「人の死を受け止める作業」であり、「自らの生を見つめ直す作業」でもあると記しています。また、同氏は「遺族が死者本人を想い、弔うということを充分に行われない葬儀は遺族のためにもならない・・・」(BPnet セカンドステージ冠婚葬祭講座<葬祭編:第53回>葬式は誰のためのものか?)とも言っています。たいへん肯ける定義であり、直言だと思います。

遺族になってしまった人たちは、逝ってしまった人を前にして悲嘆や動揺を抱えながらも、その人に想いを馳せて葬儀のかたち・内容を決め、葬儀社の助力を借りながらも、自分たちでしっかりと執り行うという作業が、その後の日々を新たな気持ちで生きていくために必要なことになると思います。遺された「おくりびと」たちが、故人が生きたいのちの日々を受け止め、自分のいのちを見つめ直す機会――それが葬儀であり葬送だと思うのです。
ですから、自らは為すことのできない死後の自分の葬儀についてまで「終活」によって細かく決め、自分らしさを残そうとするのは、「おくりびと」となる人たちから、そういう人生経験としての大きな心身作業機会を奪うことにもなってしまいかねないと思います。